朝木二古

  1. HOME
  2. 世界の記述

社会科学

法学

経営学

経済学

まず学問について

学問とは・・・

(学問):=(一定の意味によって説明し体系化された知識と、理論的に構成された研究方法などの全体をいう語)

が「スーパー大辞林」によって定められたその言葉の意味である。

では、前者と後者の違いはなんだろうか。それは結果か、過程か、の違いである。結果を説明するというのは、一定の原理によってその原理の範疇の結果全てを説明し、体系化することである。

一方、過程を説明するというのは、一定の仮定によって研究方法を定め、その時の研究対象全ての結果を、説明しようとしているその過程を説明し、体系化することである。

何かくどいような言い方であるが、つまり前者は完成し、後者は未完成の学問であるということである。

そして、私の科学の定義では前者のみを科学と定められる。なぜなら後者は、研究対象が定められていないからである。それは研究者自身が研究対象全体を把握していない事によるものである。

それは、過程であるので当たり前のことだ。

そして私がこれから説明する全ては科学についてである。それ以外は説明しない。

そして科学について

数学は科学か?

数学は存在の関係や交わりについては言及しない。なぜならそう定義したからである。

ファインマン先生は科学は実験できるが数学は実験できない、ゆえに数学は科学ではない。と説明したそうだ。確かに数学は実験できなく、古今東西あらゆる実験は単位が付きまとう。定性的・定量的ということは現実の客観性と深いところでつながるからだ。しかし、それでは数学は科学において”異端”なのか、私は、

科学とは定義によって成り立つ概念

だという事に立脚し数学とは、科学が定義するありとあらゆる概念のうち、 存在 のみ定義する、科学の中で一番仮定が少ない学問である、としている。

科学は反証可能性を持つ、と定義した方がいる。私はなるほどと思った。そうすれば、あやしい話や自己矛盾に陥った時に起こす科学の爆発的な進歩もしっくり理解できたからだ。だが一方でパラダイムシフト理論も自分は捨てきれない。そこでもっと抽象化してこの二つの考えを含めるように私の理論を試行錯誤してみた。彼らの理論も科学であってほしいという思いが原動力だ。

彼らがこの理論を産み出した背景、経験にはそう考えさせうる生活の積み重ねがあったからだ、つまり経験から帰納し、科学という体系を定めたのだ。しかし、この世界を同じように経験から導き出して、同じような方法で定めている人もいる。彼ら全員の理論が、前述の二人が定義した科学に分類されるのだろうか?

それは違うとはっきり言える。前の二人以外が言及したあやしい”科学”を私が名前を変えて違う呼び名で二人の意図を汲み取ろう。「現実学」とでも名前をつけよう。「現実学」には科学の資格がない。なぜなら上の「学問について」で書いたように、経験によって逐一現実を纏めているだけでは、理論の過程における主張であるからである。科学はその瞬間で体系を定義し、閉じておかなければならない。将来、反証される事を受け入れる覚悟のないような理論は科学ではない。

日々、様々な思惑により科学が、あたかも波打ち際で侵食にさらされているかの様に私には見えているが、それよりも、もっと堅い理論と、もっと重い意思、そして修復・向上の技術を持つ人々の、特に科学者の絶え間ないふだんの努力で、未だに科学は健在である・・・

そこで科学の「科学とは定義によって成り立つ概念」に出てくる「定義」の意味を定義する事にした

「定義」とは現実に存在するもののみを用いてすべての人が一切の誤解・偏見・自己解釈が出来ないように完全に言葉を固定化する事、を成し遂げるようとする方法

とする。

この場合、科学の内部の理論の反証可能性を残す=解釈の固定、であり、人々の価値観の違いにより科学の内部の理論はジャンプする(つまり断続的になる)というのは、解釈を固定化するために新たな現象・経験を日々固定化しようとするために生じる向上心の表れとなる。

科学はゾンビでもないし、ましてや不死鳥でもロボットでもない。

ファインマン先生は、理解するという事とは何か、と聞かれて「異なる方法でそれを知る(理解する)事」といっていたようだ。もし科学が日々生まれ変わり日々新しくなっていたとして、私は他にどう科学を理解しようか

何となく、「科学の理論の全て=私の未来の振る舞いを全て言い当てる何か」

と思っている。私が生きていくということは、まるで私を定義するという事だ。私は経験・帰納・演繹する事を止めたりしないのだ、強く生きていく、そうしていたい、そしてそれにはさみしさが、いつもつきまとう。

科学の中身へ

・・・世界は広い。一方で狭い。

世界は縦横無尽に走れ回れるはずなのに社会はそれを拒みたがる。 ゲームなどの世界では、動ける場所と存在できない場所の区別がはっきりしている。 どんなにレベルや経験値を上げても入れない、そもそもそういう設定だから仕方が無い。 だから私達が住むこの世界では経験をつめば、条件を満たせば入れない場所は無い、はずだ。

しかし法律やプライバシー等を考慮しても不思議な隔たれ方をしている場所がある。 いや、場所だけでなく全ての物事がそうなりうる可能性があり、よくそれらに私は出会う。 隔てる、分ける、ことで世界が理解し易くなるから、という目的でなら、なるほどと思う。 しかし、別の目的で隔てる事が世の中よくある。

私はこの別の目的で隔てるときに使う仕切りを壁と呼ぶ事にする。

ゲームの世界は無限の高さの仕切りで出来ている、越えることは出来ない。

現実の仕切りまたはその内の一つの壁は高さが高々1キロにも満たない、しかし私が息苦しさを感じているのはなぜだろう?

それは抽象的な概念の壁が事あるごとに私を阻み拒絶するからだと思う。

もしその壁が誰かの意図によって作られたものなら私は凄く怖い。なぜなら、外がどうなっているか見たいし行きたいのに、壁は、ずっと自分の世界だけで生活をする事を強いるのだから。さらにその壁が自分の運命を変更させているとしたらどうだろう。

私は成すすべなく壁の中で生きるしかないのか。とてもおおきな恐怖だ。

私がやりたいのは、近くの人々にそこに壁があると伝え、向こう側の人間や概念とどうしたら出会えるか、を考えることだと思っている。

壁が無くなって良いのか悪いのか、それを決めるのは未来の議論だと思う。

これからの私の振る舞いは、好奇心や愛、向上心などの為にやるのではない、言いたくはないが、もちろん生活のためではない。

実はなぜ壁にトンネルを作るのか自分でもよくわかっていない。でもそれは私が私らしく生きる事だ、という事とどこかで関係しているのだと思う。そう、だからここで壁を知ってもらい、向こう側の世界と―実は近いかもしれない世界と―出会えたらそれでここでの目的はクリアできるのかもしれない。壁が崩壊したらどうなるのだろう。守る事ができて同時に侵略ができない壁であろう、争いにつながるのだろうか。こんな事やっていいのか、どんな世界が始まるのであろうか。

私はいつだって友人達の言葉とともに覚悟をするのだ。

善し悪しは分からない、向こう側と未だに会った事がないのだから

ページトップ