朝木二古

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数学とは

数学は存在について定義しそれを語る科学である。

だから数学は存在の関係や交わりについては言及しない。なぜならそう定義したからである。

ファインマン先生は科学は実験できるが数学は実験できない、ゆえに数学は科学ではない。と説明したそうだ。確かに数学は実験できなく、古今東西あらゆる実験は単位が付きまとうからだ。定性的・定量的ということは現実の客観性と深いところでつながるからだ。しかし、数学は科学において”異端”なのか、私は、

科学とは定義によって成り立つ概念

だという事に立脚し数学とは定義するありとあらゆる概念のうち、存在 のみ定義する学問であるとしている。

科学は反証可能性を持つ、と定義した方がいる。私はなるほどと思った。そうすれば、あやしい話や自己矛盾に陥った時に起こす科学の爆発的な進歩もしっくり理解できたからだ。だが一方でパラダイムシフト理論も自分は捨てきれない。そこでもっと抽象化してこの二つの考えを含めるように私の理論を試行錯誤してみた。彼らの理論も科学であってほしいという思いが原動力だ。

彼らがこの理論を産み出した背景、経験にはそう考えさせうる生活の積み重ねがあったからだ、つまり経験から帰納し、科学という体系を定めたのだ。しかし、この世界を同じように経験から導き出して、同じような方法で定めている人もいる。彼ら全員の理論が、前述の二人が定義した科学か?

それは違うとはっきり言える。ならばもし、それら全てのが科学なら前の二人が言及した”科学”を私が名前を変えて違う呼び名で彼らの意図を汲み取ろう。「現実学」とでも名前をつけよう。「現実学」には科学の資格がない。

ありがたいことに、日々様々な思惑により科学が波打ち際で侵食にさらされている様に見えるが、それよりも、もっと堅い理論と、もっと重い意思、そして修復・向上の技術を持つ人々の、特に科学者の絶え間ないふだんの努力で、未だに科学は健在である・・・

そこで科学の「科学とは定義によって成り立つ概念」に出てくる「定義」の意味を定義する事にした

「定義」とは現実に存在するもののみを用いてすべての人が一切の誤解・偏見・自己解釈が出来ないように完全に言葉を固定化する事、を成し遂げるようとする方法

とする。

この場合、科学の内部の理論の反証可能性を残す=解釈の固定、であり、人々の価値観の違いにより科学の内部の理論はジャンプする(つまり断続的になる)というのは、解釈を固定化するために新たな現象・経験を日々固定化しようとするために生じる向上心の表れとなる。

科学はゾンビでもないし、ましてや不死鳥でもロボットでもない。

ファインマン先生は、理解するという事とは何か、と聞かれて「異なる方法でそれを知る(理解する)事」といっていたようだ。もし科学が日々生まれ変わり日々新しくなっていたとして、私は他にどう科学を理解しようか

何となく、「科学の理論の全て=私の未来の振る舞いを全て言い当てる微分方程式か何か」

と思っている。私は経験・帰納・演繹する事を止めたりしないのだ、そしてそれにはさみしさが、いつもつきまとう。

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